第74回 自然教育園 【牡牛座地区】
東京星図めぐりを、トランシット太陽がそのサインのある時に実施して行くと、当然なのですが、蟹座・獅子座・乙女座のあたりが、夏になります。
最近のここ数年は、夏は酷暑になることが多くて、その期間の星図めぐりは、ちょっと苦行になっちゃうのが、課題点です。この三カ月は、なかなか活発な活動は、できません。
なので、定期的な星図めぐり以外にも、気候の良い時を見計らって、いろいろなサインの場所に自由に行ってみたいと、考えています。
今日も、そのようなわけで、ちょこっと出かけてきました。
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今日訪問した自然教育園は、前々から一度行ってみたいと思っていた場所です。
都内に残った、手つかずの自然が豊かな場所と、聞いていました。
今日、ポコッと時間ができて、そしたら居ても立ってもいられないくらい、ここに、むしょうに行ってみたくなって、それでお天気は曇り空だったのですが、行ってきました。
さまざまな植物の姿が面白くて、気がついたら100枚を超える写真を撮っていたのですが、こちらのハテナブログのサイトにはそれだけの容量を一度にアップできるのかしら?
試しにチャレンジしてみたいと思います。
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今日行った場所は、正式には、「国立科学博物館付属 自然教育園」といいます。
JR目黒駅から、徒歩7分です。
面積はおよそ6万坪(20ha)とのこと。
以下は、その公式HPから、その沿革を引用させていただきました。
「自然教育園を含む白金台地は、洪積世(20〜50万年前)海食によって作られました。
いつ頃から人が住み着いたかは不明ですが、園内から縄文中期(約2500年前)の土器や貝塚が発見されていることから、この時代には人々が住んでいたと考えられます。
平安時代には目黒川、渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていたと考えられています。
室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。この館の主が誰かは不明ですが、白金の地名は永禄2年(1559)の記録に初めてあらわれ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されています。また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っています。
江戸時代になると、増上寺の管理下に入りましたが、寛文4年(1664)には、徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の庭園の名残であろうと思われます。
明治時代には火薬庫となり、海軍省・陸軍省の管理となり、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれました。
その後、昭和24年文部省の所管となり、「天然記念物及び史跡」に指定され、国立自然教育園として広く一般に公開され、昭和37年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っています。」
こちらが、自然教育園の入り口です。
園内の地図です。
入口を入ってすぐですが、もうすでにうっそうとした緑が茂っています。
珍しい植物もたくさん植えられていて、ちゃんと立札に名前がついているので、植物のお勉強にもなります。
ずっと、園の奥のほうに向かって、道が続いて行きます。
このあとは、園内のようすです。
『運命を導く 東京星図』松村潔、著 ダイアモンド社、2003年では、目黒不動が牡羊座28(29)度、有栖川宮記念公園の都立中央図書館が牡羊座29(30)度と、されています。
皇居の中心から、この目黒不動と中央図書館へのラインから考えてみて、おそらくこの自然教育園は、牡牛座初期度数になるのではないかと思われます。
白金長者の住居跡であったこと、手つかずの自然が長い間残されている場所であることなど、牡牛座らしい性質を見出すことができると、言うことも可能でしょう。
入り口付近は、さすがにたくさんの人たちが居ましたが、奥のあたりに行くと、ほんとうに「ここは都心ですか?」という感じで、遊歩道の前後に、誰も居ないことも、しばしばでした。
都心に残された、不思議スポットの、ひとつだと思いました。